マウリツィオ・フェッラーロ
・自由なモンフェッラートで自由なワイン造り・
モンフェッラートの協同組合の醸造責任者を経て実家のカンティーナを引き継ぎ、20年かけて自然農法を導入。セパージュも醸造方法も自由な発想で他にないワインを醸す。酸化防止剤無添加。
モンフェッラートの典型的農家
アスティの北東、モンフェッラート地区モンテマーニョ村で1819 年から続く家族経営カンティーナ「マウリッツィオ・フェッラーロ」。
『この村では古くからワイン造りが行われてきたが、フィロキセラで全て廃業し葡萄畑は森に戻ってしまった。現在、3 軒の造り手しか残っていない』
初代がロバとの物々交換で畑を得て葡萄栽培を開始するが、1913 年にフィロキセラで全滅。フェッラーロ家はアメリカへの移住を決断する。
当時14 歳だった祖父ピエトロはモンテマーニョに残り、畑を守っていく事を選び、徐々に畑を再生。価格が暴落した畑を買い足していく。
『フィロキセラ前は優れた産地として記録に残っている。葡萄にとって良い環境だから昔の人達は、この村に葡萄を植えたはず』
村の周辺、昔葡萄畑だった区画を再生し、土壌、気候に合った土着品種を植樹していった。今ではルケやグリニョリーノ等7 品種を栽培している。
『バローロのような有名産地ではないので自由度が高いのがモンフェッラートの魅力。古いルールに縛られない自由なワイン造りが可能』
酸化防止剤無添加
アスティの醸造学校で学び、地元の協同組合の醸造責任者としてモンフェッラートの土壌や気候、野生酵母を経験してきた。
『土地の酵母の個性や土壌、気候の特徴を知る必要がある。生活しながら数ヴィンテージを経験する事で土地の個性が理解できる』
当主マウリッツィオは地元で醸造学を学び、地元の協同組合で経験を積んだ。モンテマーニョ村の全てを知っている。
90 年代に実家に戻り、父親の下でワイン造りを開始。2001 年には当主となり、自然栽培を導入。持続可能な農業に修正していく。
『モンテマーニョ村に自生するノコギリソウやたんぽぽ等のハーブを使い、病気に対応。下草は踏みつけて倒し、自然と土に戻す』
全ての薬品を排除し、自然な環境で葡萄の自然治癒力を高めていくが、2003 年までは病気が蔓延し、収量は半分まで減ってしまう。
『農薬を使わないので猪や鹿、野鳥が集まるようになり、更に収穫量が減ってしまった。野生の動物は危険な薬品を避けて安全な畑に集まる…』
野生の猪が葡萄の根を食べてしまう。だから葡萄樹は根を表面ではなく地中深くに伸ばすようになる。猪でさえも自然のサイクルの1 つ。
『葡萄は徐々に強くなり、エネルギーを高めていったので2006 年からは収穫から醸造、ボトリングまで一切の酸化防止剤無添加となった』
醸造学を学び、地元のテロワールを知り尽くしたマウリッツィオが最終的に辿り着いたのは葡萄の力を利用した自然醸造だった。
『自然界で育った葡萄はエネルギーを持つ。その葡萄と相性の良い土着の野生酵母で自然発酵させる。それこそが土地のワイン』
一見、ファンキーで癖のあるマウリッツィオ。ワインもそう一見、風変わりだが時間と共に品種個性や土地の個性が感じられるから不思議。
自由なワイン造り
畑は全てモンフェッラート地区モンテマーニョ村3 ヶ所に分かれていて、全ての畑は地元の伝統に習ってニックネームが付けられている。
■Chiovende(キオヴェンデ)
1964年に祖父ピエトロがグリニョリーノを植樹(一部ルケ、シャルドネ、ティモラッソ)。東向きで朝日しか浴びないので果皮が薄いグリニョリーノが焼けない。
■San Giovanni(サン・ジョヴァンニ)
南西向きの暑い畑で粘土が強い石灰質土壌。日照量が必要なバルベーラを植樹。果皮が厚く、しっかりとした骨格をワインに与える。
■Arianna(アリアンナ)
ゴールデン・フラヴェシェンスという病気が多いので耐性のあるネッビオーロを植樹。粘土質なのでカジュアルで柔らかいネッビオーロに。
『醸造は極めてシンプル。添加物は化学でワインは農作物。農作物であるワインを飲み手は買うのだから化学が入っていてはいけない』
そして最も重要なのが果実全てを使う事。果皮は種子を守る為の要素を多く蓄えている。モストは果皮と一緒でないと劣化してしまう。
『赤ワインと同じく、白品種でも果皮も一緒に発酵させる事で添加物が必要なくなる。ワインになった後も酸化から守られる』
ワインは毎年、全く違う個性。その年の個性を活かす事が優先なのでワイン名に関係なくセパージュも醸造方法も自由に変更される。